桜の画像花咲爺レター

花咲爺レター

日本一の個人投資家と呼ばれた竹田和平さんの側で学んだ至言集

はじめに

私が竹田和平さんに出会ったのは2011年の8月18日でした。その前に雑誌のプレジデントや、講演会などでお見かけしていたのですが、雲のように遠い存在でした。当時の私は学生で、無料で興味のある人なら誰にでも、竹田和平さんが私塾として門戸を開いていた問答講に飛び込んだのがきっかけでした。

たまたま投稿した文章が目に留まって、面白い学生だから一度会ってみようと好奇心がくすぐられて、メッセージをくださったのがきっかけでした。その後、人手不足で困っていた会社の仕事をアルバイトとして手伝うようになったのが始まりです。

会社の会長職にありながら、自分のことを和平さんと呼んでほしいと話して、誰にでも垣根を作らないフランクさで、学生の自分にもニコニコと接して下さいました。ある時は、ファミレスのドリンクバーを注文し何時間にもわたって話を力説して下さったこともありました。お会いする度に、触れたことも、聞いたことのない、膨大な知識量と聡明な見識に驚嘆するばかりでした。

入社してからも毎日が必死で、時に涙にくれながら、ついていくのが精いっぱいな、不器用な人間でした。そんな私が、最後の秘書と呼ばれるようになったのは、前の社員の方がみな寿退社をされて、適当な人が誰もいなかったのでお役が回って来たという、おまけつきのお話です。

和平さんに出会う前の私は、病気に苦しみ人間不信になった時期が続き、とても人生が明るいと言えるものではありませんでした。しかしながら、和平さんが切々と話して下さった言葉が私の人生に光を当ててくれました。もちろん順境な時ばかりではありません。ですが、和平さんから教えて頂いた言葉や考え方は逆境にあっても力強く支えてくれていると感じています。

和平さんが死の間際、最後に遺した課題は「自分の言葉を後世に役立てて欲しい」でした。さぁ、すごい使命を頂いたぞ、と思い、作家プロデューサーの山本時嗣さんの助力を得て本を世に出すことが出来ました。私個人として、課題に向き合い、私のビジネスの師であり親友のムラモトヒロキさんのアドバイスと助力を得て、メールマガジンの発行をし今に至ります。
5年程、和平さんの側にいて不器用でも、人生に希望を見出せた私だからこそ、伝えられる言葉があると思いました。ありがたくもメールマガジンは和平さんのご親族や、深い親交のあった方、私が仕事を始めて10年来のご縁の方、まったく和平さんと生前会ったこともないけれど興味をもたれた方等、様々な方がメールマガジンというツールでつながった1つの真心の輪が作られました。人と人とが真心でつながった和を大切にしたいと思い活動を続けていくことにしました。

メールマガジンは竹田和平さんが逝去された2016年10月28日に創刊して以来、続けております。毎日続けていくことが必死な時もありましたが、読んで頂く方の激励の言葉や感謝の言葉に支えられて今に至ります。
日々楽しみにして下さっている読者様に心より御礼申し上げます。私自身、和平さんの遺言を胸に、教えて頂いた言葉を杖に日々を送っております。読んで下さる方のお役に立つことを心から願ってここに記します。

■プロフィール

竹田和平(たけだ わへい)

竹田和平さん写真
130社以上の大株主となり、日本一の個人投資家と呼ばれ、一躍有名になった。
これまで、多くの経営者や成功者の方々と交友を深めてきた。自身を平成の花咲爺と名乗り、経営者や投資家の方を始め多くの方々を励まし続けた。
晩年「智徳志士の会」を立ち上げ、国家財政を黒字化するため、経営者と投資家の方と共に学び、励まし合う活動を行った。
■プロフィール

真田英里(さなだ えり)

真田英里さん写真
2011年8月、まろわ問答講を通じて、竹田和平さんと奇跡的に出会い、仕事を手伝うように。ホームページ制作、和平さんの講演会の運営や司会進行役などを務めるようになる。
2013年3月、大学を卒業、竹田本社株式会社入社。2014年、和平さんの秘書となる。
同年秋、「日本を財政破たんから救うため」智徳の学びを経営者と投資家に呼びかける「智徳志士の会 発起人代表会」を立ち上げ。50名の各界の著名なリーダーに呼びかけ、会を取り仕切る。2015年4月4日より同会の運営を行った。
2016年7月、和平さんの最期を看取る。2023年7月竹田本社株式会社退職